走ること、学ぶこと。
大垣本部校|2016年9月16日
少し前のことになりますが、中日新聞のコラム「中日春秋」が秀逸でした。
みなさん、「走る」ってどう定義しますか?
国語辞典には「両足を素早く動かして移動する」「軽く跳びはねるようにして足を使って進む」と書いてあるようなんですが、そのコラムでは「両足を地面から同時に離す快楽」とありました。
この定義、すごくないですか?
これは実は、中途失明した女性の定義なんだそうです。視覚を奪われてしまった人間にとって「走る」というのは容易なことではないのですが、そんな人が走れたときの感動を見事に表現できているのではないでしょうか。
また、1歳半で失明した、ある競泳選手は他人が泳ぐ姿を見たことがありません。「たくさん泳いで苦しくなってくると、自然と一番いいタイミングでしか体が動かなくなっていきます。逆にそれじゃないともう溺れちゃう」そうです。そこまで追い込んで泳法を身に付けたそうです。
あたかも「身体が思考する」かのようですね。
今、パラリンピックが行われています。身体に障害を持った人たちの祭典ですが、彼らが「障害を持っている」とは言えない説得力を上の例は示していると思います。
健常者(という定義が適切かどうかわかりませんが)だからできるなどという陳腐なレベルを超えて、人間の可能性はどこまででも広がっていきそうです。
勉強もまた「脳ミソ」だけでなく「身体」の所作でもあります。辞書を引く、参考書を調べる、ペンを持って問題を解く、何かアプリを立ち上げる、みんな身体の動作無しでは成り立ちません。
問題を解く所作が、「紙の上にペンを走らせる快楽」なんて言えたら最高なんですけどね(笑)。
大垣本部 米山