ノーベル賞と文理選択
大垣本部校|2016年10月8日
毎年この時期は、ノーベル賞のニュースが世間を賑わします。
今年も日本人の受賞が出ました。3年連続、本当に素晴らしいですね!
ノーベル賞が全てではないとはいえ、こういうニュースに接するたびに日本の研究レベルの高さや研究者の方々の優秀さを実感します。
いろいろ言われますが、まだまだ日本は捨てたものではない、と思わせてくれます。
そして若い子達に、「後に続こう」とばかりに励みになるであろうことがとても頼もしいです。
などと書くと年取ったオッサンみたいな見方になってしまいますが、まぁ、そういう歳でもあるので仕方なし、です(笑)。
さて、それはさておき、ノーベル賞を受賞された方々の多くは、いわゆる「基礎研究」と呼ばれる類の研究を地道に続けてこられた方たちです。
いつ結果が出るかわからない、そもそもちゃんとした結果が出る保証もない、ましてやそれが世のため人のためになるかなど到底思いもつかない――それが彼らの研究ではないでしょうか。
むしろ、そういう打算とは無縁のところで、「ただ楽しいから」「興味が尽きないから」といった知的好奇心が彼らを衝き動かしてきたのでしょう。
気が付いたら賞に値する研究に結実していた、というものなのだと思います。
しかし今、こうした基礎研究の重要性が失われようとしています。
「実用性のある研究」「成果の期待できる研究」など、下世話な言い方をすれば「カネになる研究」がもてはやされる傾向があるからです。
しかし、「成果の期待できる研究」など、やり始めた時には誰もわかるはずありません。誰もそれを目論んでいないからです。
「今まで誰もやっていないこと」に取り組むのは、未知の大海に一人漕ぎ出すようなもので、進むべき針路もわからなければ、目的地も見えない途方もない船出なはずです。
「そういうもの」なのです。
今回、ノーベル賞を受賞された大隅良典氏はこう語っています。
「科学が『役に立つ』という言葉が社会をダメにしている。本当に役立つのは百年後かもしれない。将来を見据え、科学を一つの文化として認めてくれる社会にならないかと強く願っている」
考えさせられる言葉ですよね。
「社会をダメにしている」という言葉は痛烈です。
我々はつい、「これをやって何の役に立つのか」という尺度で物事を捉えてしまいます。しかし、これがいかに危険で了見の狭い見方なのかを改めて突きつけられている気がします。
そして、「科学が文化である」ということも、特に日本では耳の痛い話ではないでしょうか。一時のブームや流行ではなく、営々として続けていかなければならないのですよね。
我々は科学という言葉に、ともすると「自然科学」を当て嵌めます。
しかし、科学とはおよそ、「人文科学」「社会科学」「自然科学」の3分野を指し、そのどれもが不可欠であり、そのどれかが他より優れているというような種のものではないのです。
人文科学は人間の「こころ」を、社会科学は人間社会の「しくみ」を、そして自然科学は人間が作り出した「技術」を、それぞれ扱います。
日本はともすると、自然科学に偏重する嫌いがあり、逆に人文科学は特に冷遇されがちです。
しかし、素晴らしい自然科学者ほど、人文科学をはじめとする文系の学問の必要性を説いているということ一つとっても、いかにバランスのとれた学びが必要であるかと思い知らされます。
実は今、高校1年生のみなさんは、高2からの文理選択の時期に入ってきています。
「文系より理系の方がカッコイイ」「理系の方が上」・・・そんな根拠のないイメージを持っている子もいるようです。
そして、あくまで噂ですが、とある高校の先生は「できるだけ理系に行かせようとしている」らしいです。
なんとナンセンスな話でしょうか!
高校生ひとり一人の将来に関わる選択を、自分達の都合や尺度で決めようとしているとしたら、全くもっておかしなことです。
これが噂でしかないことを祈りますが、是非とも高校1年生の皆さんには、つまらぬイメージや先入観にとらわれず、純粋に勉強したいこと、やりたいことを基準に将来の進路を決めて欲しいと思っています。
20年後、30年後、何が役に立つのかなんて誰にもわかりません。
予測してみても詮無きことです。
だったら、自分に正直に生きて欲しいと思います。
何よりもあなたの人生なのですから。
大垣本部校 米山